Music: ああ、新撰組

第4回歴史ウォーク

新選組の生きた証を訪ねて
2011.9.11 京都市右京区・中京区・下京区
	
	日時 : 平成23年9月11日(日)AM9:30 JR京都駅前北側広場集合
	昼食 : 弁当・水筒・その他。雨具も忘れずに。
	散策路:
	■本光寺 ■不動堂村屯所跡 ■油小路の変跡(油小路決闘地) ■天満屋騒動跡 中井庄五郎殉難の地(天満屋事件)碑 
	■西本願寺屯所跡 ■島原大門 ■置屋「輪違屋」 ■揚屋「角屋」 ■壬生寺 ■新徳禅寺 ■新選組馬小屋跡
	■新選組屯所跡前川邸 ■新選組屯所跡八木邸 ■光縁寺 四条大宮付近にて解散







	京都駅から西へ歩くこと数分で「堀川通り」にぶちあたる。このあたり一帯が昔の不動堂村である。ここに三番目の新撰組屯所が
	あった。








	■不動堂村屯所跡 
	慶応3年6月15日、新選組は壬生から西本願寺へ移った屯所を、さらに不動堂村に移す。境内で大砲をぶっ放したりする新選組を
	立ち退かせたい西本願寺が、全額費用を負担して建てた豪勢な屯所だった。広大な敷地を持ち、剣道場や大広間、30人が同時に入
	れる大浴場まであった。大名屋敷と変わらない立派な普請だったが、新選組は、半年後の12月16日には更に伏見奉行所に転居す
	ることになる。不動堂村とは、付近に不動尊があったからだが、屯所跡は現在リーガロイヤル京都ホテルの敷地となっている。



「堀川通り」を少し戻り、油小路へ入ってこの道を北上すると本光寺、油小路決闘地がある。




	■本光寺 & 油小路の変跡(油小路決闘地) 
	慶応3年11月18日、新選組と別れ「高台寺党(御陵衛士)」を組織した伊東甲子太郎(かしたろう)を暗殺した新選組は、七条
	油小路にその遺体を放置し、引取りに来た高台寺党と凄惨な激闘を展開した。この時、藤堂兵助、服部武雄、毛内有之助の3人が絶
	命した。伊東ら4名の遺骸は、光縁寺に葬られたが、慶応4年3月に、篠原泰之進らにより泉涌寺塔頭戒光寺に改装された。伊東甲
	子太郎が絶命した本光寺には伊東らの殉難の碑がある。





伊東甲子太郎は斬りつけられてこの「南無妙法蓮華経」と刻まれた石柱に寄りかかって絶命した。



以下は本光寺の説明書。











	油小路というだけあって、かってはこの通りに油屋が並んでいたようだが、いまは1軒だけのようだった。ここから2,30m
	先に天満屋事件碑があった。

	■天満屋騒動跡(中井庄五郎殉難の地碑) 
	慶応3年(1867年)12月7日、天満屋で酒宴を開いていた紀州藩士・三浦休太郎らを、海援隊の陸奥宗光、十津川郷士・中井庄
	五郎らが襲撃した事件を「天満屋騒動」と言う。襲撃の理由は、坂本龍馬ら海援隊の船「いろは丸」と紀州藩の「明光丸」が起こ
	した海難事故で、紀州藩が7万両の賠償金を支払う事になった。この沙汰に不満を持った三浦が、一月前の11月、坂本龍馬暗殺
	を仕組んだという噂が流れていた。陸奥宗光は、龍馬暗殺後、三浦休太郎を暗殺の黒幕と思い込み、海援隊の同志15人と共に彼
	の滞在する天満屋を襲撃したのである。三浦も陸奥らの動きを事前に察知し、新選組に警護を依頼していた。天満屋で双方入り乱
	れての乱闘となり、襲撃側の中井庄五郎と、近藤勇の親戚であった新選組の宮川信吉が死亡した。


	殉難の地碑は、小さな祠の脇に立っていて、注意して探さなければわからないほど目立たない。

	陸奥宗光はもともと紀州藩士ながら、安政5年(1858年)、江戸に出て安井息軒、水本成美に学び、土佐の坂本龍馬、長州の桂小
	五郎(木戸孝允)、伊藤俊輔(伊藤博文)などの志士と交友を持つようになる。文久3年(1863年)、勝海舟の神戸海軍操練所に
	入り、慶応3年には坂本龍馬の海援隊に加わるなど始終坂本と行動をともにした。三浦は後に東京府知事となり、陸奥宗光は外務
	大臣として不平等条約の改正(条約改正)に辣腕を振るった。





油小路を北上すると、3,4分で左側の堀川通りに西本願寺が見えてくる。ここの北隅に新撰組の「西本願寺屯所」があった。






	■西本願寺屯所跡 
	西本願寺は、幕末には、末寺門徒の多い長州藩との関係から多くの勤皇僧を輩出した。禁門の変では長州藩士を僧に変装させ落ち
	延びさせたこともあり、親勤皇派と目されていた。幕府は元治2年(1865年)3月、新撰組の土方歳三と図って、強引に西本願寺
	北集会所に新選組屯所を置き、勤皇派の活動を抑制しようとした。境内で大砲の訓練や教練を行い、豚肉を料理する臭いなどで、
	寺側は大変迷惑したようである。それが冒頭の「不動堂村屯所」への移転に繋がっている。新選組が使用した北集会所は、現在姫
	路市亀山の本徳寺に移築されている。






太鼓楼の北側の道を真っ直ぐ西へ歩くと約20分くらいで島原へ来る。入口に島原大門がある。








	■島原大門 
	江戸時代に隆盛を極めた花街島原遊里の入り口であり、また出口でもある。かつて島原には50ほどの置屋と約20軒の揚屋が
	あった。大門には火災時の用水桶が積まれ、昔の島原の様子を留めている。現在の大門は慶応3)(1867)年に再建されたもの。
	かつての門は火事で消失してしまった。新選組隊士や勤皇の志士たちも、ここを通って悪所がよいをしたのだ。

	嶋原	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
	嶋原(しまばら)は京都市下京区に位置する花街。正式名称は西新屋敷で6つの町(上ノ町、中之町、中堂寺町、太夫町、下之
	町、揚屋町)で構成されている。
	嶋原の歴史は古く、日本で最初の公許された花街である。室町時代に「九条の里」という傾城局が設置されたのが始まりだとい
	われる。桃山時代に豊臣秀吉によって花街が二条万里小路に移されたという(「二条柳町」)。江戸時代になると六条付近にう
	つされて「六条三筋町」と称され、吉野太夫等の名妓が輩出した。あるトラブルで朱雀野付近に強制移住させられた。このこと
	が島原の乱に似ていたため以後「嶋原」と呼ばれるようになったという説と、周りが田原であったため、島にたとえて呼ばれた
	という説がある。周りは堀に囲まれ、「廓」と呼ばれるようになった。最盛期は元禄期で、その後は幾度かの盛衰を繰り返した
	ものの、あまり栄えなかった。これは立地条件が悪かったことと格式の高さが原因と思われる。大半の人々は祇園町、祇園新地、
	上七軒等の花街を利用していたようである。嶋原の大門は2箇所存在し、廓の女性達は(手形が必要ではあるが)自由に廓の外
	へ出ることができ、一般人の出入りも老若男女問わず自由。清河八郎や頼山陽のように、実母を「親孝行」として揚屋で遊ばせ
	た例があり、世間一般に誤解されがちな「遊廓」とは異なる存在であることがわかる。





	
	幕末には西郷隆盛、久坂玄瑞や新撰組らが出入りしていた。明治以後は公家、武家の常連客がいなくなり、さらに窮状に置かれ
	るものの「太夫道中」などの行事で支えていたが、昭和後期にお茶屋、太夫、芸妓の人数が減り、ついにはお茶屋組合が解散し
	て普通の住宅地と化した。残存していた多くの建物や門も、取り壊しや車との接触事故などで姿を消し、現在は「大門」、「輪
	違屋」、「角屋」がわずかにその面影をとどめているだけである。

	嶋原は世間では遊廓と語られがちだが実際は遊廓ではない。開放的で歌舞練場があり、和歌俳諧等の文芸活動が盛んであるなど、
	文化レベルの高い花街であることがわかる。日本で唯一残る揚屋建築である『角屋』は嶋原が高度な花街である証を見せている。
	嶋原に彩りを添える主役が太夫である。太夫は置屋に所属し、揚屋に派遣される(この形態が祇園等、他の花街に影響を与えた)。
	太夫は従五位の位を持つほどの格式があり、教養に長けた芸妓の最高の地位である。例えば、舞踊なら名取、師範になれるくら
	いである。八千代太夫、吉野太夫、夕霧太夫、大橋太夫、桜木太夫などの名妓を輩出している。かつての嶋原では毎年10月に吉
	野太夫・大橋太夫・八千代太夫の追善供養を行ったらしい。
	嶋原の太夫は、現代も「輪違屋」のお座敷のつとめを中心に、数々の行事やイベントに参加している(おもに京都)。祇園の舞
	妓、芸妓と同様の白塗りの厚化粧で、口紅は下唇のみに塗り、必ずお歯黒を付ける。引眉しないので半元服の習慣が現代に残る
	ものと見てよい。また公家文化の影響とも考えられる。原則として鬘を被らず、自毛で「男元禄(立兵庫)」、「長船」、「勝
	山」(東京でいうところの「吹輪」とほぼ同形)等の各種の日本髪(髪型の種類がかなり多い)を結う。帯は前で5角形に結ぶ
	が、これは「心」の字を表すとされる。



	
	歴史的には能楽や女歌舞伎の舞台で秀でた女性に「太夫」(舞太夫、能太夫)の称号が与えられたことから、嶋原の太夫は舞踊
	を習得していることが必須である。嶋原の舞踊の流派は、当初篠塚流、その後一時井上流になったが、後に花柳流に変わった。
	現在は特定の流派はない。茶道もおもてなしの技術として必須とされるが、特定の流派はない。その他、和楽器、唄、書道、香
	道、華道、詩歌、御所風の遊びに通じていることも必要とされる。話術も比較的重視されている。

	嶋原の太夫は高水準の芸が売り物であり体を売らなかったので芸妓であって遊女ではない、とされる。また、太夫の通称は「こ
	ったい」であって「おいらん」ではない。








	■置屋「輪違屋」 (わちがいや)
	島原大門をくぐって右手に、太夫たちを置いた「輪違屋」がある。ここも新選組隊士等の気晴らしの場であったが、現在は拝観
	謝絶の看板が出ている。輪違屋は、元禄元年(1688)に創業された店で、300年以上の歴史を誇る。この建物は、1857年に再
	建されたもので、1871年に改築され、現在の姿になった。当時の構造を良く残した貴重な建物であると認められ、昭和59年に
	京都市の文化財に指定された。
	輪違屋は、揚屋と置屋を兼ね備えた現役の店で、現在、日本で唯一「太夫」が居る所である。太夫は「こったい」とも呼ばれ、
	正五位の位を持ち十万石の大名に匹敵するとされるほど格が高く、また教養も深かったことから、客の方が太夫の機嫌をとった
	と言う。輪違屋の遊女は新選組隊士と関わりが深く、山南敬助と明里、平間重助と糸里、伊東甲子太郎と花香太夫が馴染みの仲
	だった。輪違屋は今もなお営業中の店であるため、非公開である。ただし、客として訪れる事はできる。豪快な建物の往時を偲
	ぶことができる。



説明板はもうかすれて読めない。





	輪違屋から角屋を目指して歩いていく2.3分の間に「誠の湯」というお風呂屋さんがあった。「誠の湯やて!」「まことかいな?」
	「なんじゃそれ」「ここで昼飯にはちょっと早いな」「湯に入ったらもう歩けまへんで」「そやね」などと、ワイワイガヤガヤ。



	■揚屋「角屋」 
	隊規を乱していた芹沢鴨が最後に飲んだのがこの「角屋」で、泥酔して壬生の八木源之丞邸に帰った芹沢は、近藤らに粛清され
	た。角屋の建物は揚屋建築唯一の遺構として国重文に指定されている。また与謝蕪村の「紅白梅図」も重文指定である。現在は
	「角屋もてなしの文化美術館」として建物と所蔵美術品が展示公開されている。

	・開館時間:10時〜16時 
	・休館日:月曜日(祝日の場合翌日)、7/19〜9/14、12/16〜3/14
	・料金:(1階のみ)一般・大学生1000円、中・高生800円、小学生500円 ※2階見学は別料金・要予約 TEL.075-351-0024






	久坂玄瑞		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	久坂玄瑞(くさかげんずい、天保11年(1840年) - 元治元年7月19日(1864年8月20日))は、日本の武士・長州藩士。幼名は
	秀三郎、名は通武、通称は誠、義助。妻は吉田松陰の妹、文。長州藩における尊皇攘夷派の中心人物。贈正四位。

	長門国萩平安古(現・山口県萩市)に萩藩医・久坂良迪、富子の二男として生まれる。藩校明倫館に入って医学および洋書を学
	んだのち、安政3年(1856年)、17歳で九州に遊学。宮部鼎蔵を訪ねた際、吉田松陰の名を耳にする。帰藩後、松下村塾に学び、
	高杉晋作、吉田稔麿と共に村塾の三秀といわれた。松陰は久坂を長州第一の俊才であると認め、高杉晋作と争わせて才能を開花
	させるようつとめた。松陰は、久坂を自分の妹文と結婚させている。
	安政5年(1858年)、京都・江戸に遊学し、安政の大獄によって松陰が刑死した後、尊攘運動の先頭に立つようになる。
	長井雅楽の「航海遠略策」によって藩論が公武合体論に傾くと、文久2年(1862年)同志と共に上京し、長井の弾劾書を藩に提
	出。藩論の転換に尽力した。同年10月、幕府へ攘夷を督促するための勅使三条実美、姉小路公知らと共に江戸に入ると、高杉ら
	と御楯組を結成、12月には品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを実行した。
	その後、水戸、信州を経て京都に入り、文久3年(1863年)1月27日に京都翠紅館にて各藩士と会合。4月からは京都藩邸御用掛
	として攘夷祈願の行幸を画策した。幕府が攘夷期限として5月10日を上奏するのと前後して帰藩し、下関にて光明寺党を結成。
	首領に中山忠光を迎えて外国艦船砲撃事件に加わった。この頃、義助と改名する。また再度入京し、尊攘激派と大和行幸の計画
	などを画策した。
	同年の八月十八日の政変によって長州勢が朝廷より一掃された後も、しばらくの間京都詰の政務座役として在京し、失地回復を
	図った。しかし、翌元治元年(1864年)6月、池田屋事件の悲報が国許に伝わると藩内で京都進発の論議が沸騰したため、来島
	又兵衛や真木和泉らと諸隊を率いて東上。真木和泉らと共に堺町御門で戦ったが(禁門の変または蛤御門の変)、負傷して寺島
	忠三郎と共に鷹司邸内で自刃した。享年25(寺島と刺し違えたとも言われる)。下右の写真が久坂玄瑞。





同じく真木和泉も、蛤御門の変に敗れて天王山まで逃げ、そこで自刃した。






	芹沢鴨の暗殺	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	文久3年9月、芹沢が懸想していた吉田屋の芸妓小寅が肌を許さなかったため、立腹した芹沢が吉田屋に乗り込み、店を破壊する
	と主人を脅して、小寅と付き添いの芸妓お鹿を呼びつけ罰として2人を断髪させる乱暴を行っている(「浪士文久報国記事」)。
	13日、近藤らは芹沢派の新見錦(この時は副長に降格)に乱暴狼藉の罪を問い詰めて切腹させた(「浪士文久報国記事」)。
	14日、吉田屋での事件が問題となり、朝廷から芹沢の逮捕命令が出たことから、会津藩は近藤、土方、山南らに芹沢の処置を密
	命する。乱暴狼藉は表向きの理由で、水戸学を学び、天狗党の強烈な尊王攘夷思想の流れをくむ芹沢を危険視したという説もあ
	る。
	16日、(「川瀬家文書」〜『新選組水戸派読本掲載』による。『新選組遺聞』などでは18日)新選組は島原の角屋で芸妓総揚げ
	の宴会を開いた。芹沢は平山五郎、平間重助、土方歳三らと早めに角屋を出て壬生の八木家へ戻り、八木家で再度宴会を催した。
	その席に芹沢の愛妾のお梅、平山の馴染みの芸妓桔梗屋吉栄、平間の馴染みの輪違屋糸里が待っており、すっかり泥酔した芹沢
	たちは宴席が終ると女たちと同衾して寝た。
	大雨が降る深夜、突然、数人の男たちが芹沢の寝ている部屋に押し入り、同室で寝ていた平山を殺害し、芹沢に斬りつけた。驚
	いた芹沢は飛び起きて刀を取ろうとするが叶わず、真っ裸のまま八木家の親子が寝ていた隣室に飛び込むが、文机に転び、そこ
	を刺客たちがよってたかってずたずたに斬りつけ、芹沢を殺すと刺客たちは立ち去った。
	平山の死体は胴体と首が離れており、芹沢と同衾していたお梅も首を切られ惨殺された。別室にいた平間は逃亡。吉栄と糸里も
	難を逃れ姿を消したという。
	『新選組遺聞』(子母沢寛:中央公論社) では、八木源之丞の妻まさが土方歳三が夜中にしきりに様子をうかがっているのを
	目撃しており、現場には沖田総司と原田左之助は確かにおり、山南敬助もいたのではないかと記している。永倉の「浪士文久報
	国記事」によると暗殺は土方、沖田、藤堂平助、御倉伊勢武らが実行したとある。西村兼文(新選組が屯所を置いた西本願寺の
	寺侍)の『新撰組始末記』では実行者は土方、沖田、山南、原田になっている。
	事件は長州藩の仕業とされ、18日(18日暗殺説によれば20日)に芹沢と平山の葬儀が神式に則り盛大に執り行われた。事件の一
	連の経緯を20日に近藤は郷里多摩の佐藤彦五郎に手紙を送っている。芹沢の墓所は京都市中京区の壬生寺にある。

	芹沢鴨の暗殺日については墓碑に倣い18日が通説となっていた。しかし明治期に発行された「七年史」や「川瀬家文書」等16日
	を暗殺日とする史料もあり、現時点においても暗殺日は確定していない。













	
	鴻臚館	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	<平安京の鴻臚館>
 
	東鴻臚館址の石碑平安京の遷都が延暦13年(794年)であり、平安京の鴻臚館は3つのうちで最も遅くに設立された客館となる。
	当初は朱雀大路南端の羅城門の両脇に設けられていた。東寺・西寺の建立のため弘仁年間(810年 - 824年)に朱雀大路を跨いだ
	七条に東鴻臚館・西鴻臚館として移転。現在の京都府京都市下京区、JR丹波口駅の南東附近に位置した。天長10年(833年)の
	『令義解』にある鴻臚館は平安京の鴻臚館を指している。
	平安京の鴻臚館はおもに渤海使を迎賓していた。「北路」にて来訪した渤海使は能登客院(石川県羽咋郡志賀町)や松原客院(福
	井県敦賀市)を経由して都に上る。都の鴻臚館で入朝の儀を行ったのち、内蔵寮と交易し、次に都の者と、その次に都外の者と交
	易をした。しかし渤海王大仁秀治世に日本との関係に変化が生じて交易が減退。東鴻臚館は承和6年(839年)に典薬寮所管の御薬
	園へと改められた。さらに渤海国が遼によって滅亡(926年)したのち施設は衰え、鎌倉時代の頃に消失した。一説には延喜20年
	(920年)の頃に廃止されたともされる。
	『源氏物語』第1帖『桐壺』には、鴻臚館滞在の高麗の人相占いの元を光源氏が訪れる様子が書かれている。また江戸時代には与
	謝蕪村が「白梅や墨芳しき鴻臚館」と詠っている。今では大正4年(1915年)に建てられた東鴻臚館址の碑が下京区西新屋敷揚屋
	町に残るのみである。

住吉神社の側に、「島原西門」の碑があった。ここに、下右のような門が立っていたのである。







壬生寺近くには「新撰組」グッズだけを売っているお店があった。






	■壬生寺
	壬生寺(みぶでら)は、京都市中京区壬生にある律宗大本山の寺院である。本尊は地蔵菩薩、開基は園城寺(三井寺)の僧
	快賢である。中世に寺を再興した円覚上人による融通念仏の「大念仏狂言」を伝える寺として、また新選組ゆかりの寺とし
	ても知られる。壬生寺は通称で、寺号を宝憧三昧寺、院号を心浄光院という。






	江戸時代後期の幕末には京都の治安維持を目的に活動した新選組(当初は壬生浪士組といった)の本拠が壬生村の八木家に
	置かれた。その縁で境内には局長近藤勇の銅像や、新選組隊士の墓である壬生塚がある。壬生塚には、芹沢鴨ら新選組隊士
	の墓もある。4月と10月に、念仏の教えを説くユーモラスな無言劇「壬生狂言」が開催される。
	当寺旧本尊の地蔵菩薩半跏像(鎌倉時代後期の作)は、「壬生地蔵」と呼ばれ信仰を集めていたが、1962年(昭和37年)7
	月25日、放火により本堂とともに焼失した。現在の本尊・地蔵菩薩立像は、火災後に本山の唐招提寺から移されたものであ
	る。




	江戸時代後期の幕末には京都の治安維持を目的に活動した新選組(当初は壬生浪士組といった)の本拠が壬生村の八木家に置
	かれた。その縁で境内には局長近藤勇の銅像や、新選組隊士の墓である壬生塚がある(近藤勇の墓とされるものは、当所以外
	にも会津若松市、三鷹市などに存在する)。











近藤勇像の脇にある顕彰碑の裏に、有名な「局中法度」(きょくちゅうはっと)が刻んである(下)。




	子母澤寛の「新選組始末記」(昭和3年刊行)では、

	   一、士道に背きまじきこと。
	   一、局を脱するを許さず
	   一、かってに金策いたすべからず
	   一、かってに訴訟を取り扱うべからず
	   一、私の闘争を許さず

	   右の条々に背候者は切腹申付べく候也

	という内容の隊規を「局中法度書」として、新撰組結成当初から定めたとなっているが、これはどうやら子母澤寛の創作のようである。
	これまでの資料では、「局中法度書」という語や、明確に「新撰組隊規」と明記されたようなものは発見されていない。ただ、後に二番
	組長であった永倉新八が、明治になって著した回顧録「新選組顛末記」によれば、

		一、士道にそむくこと 
		二、局を脱すること 
		三、かってに金策すること 
		四、かってに訴訟をとりあつかうこと

	を禁じた「禁令」というものが存在していたようである。子母澤寛は、それを元に「局中法度書」という語を創作したのだろうというの
	が定説である。しかし、「脱走者は発見しだい、隊士により討ち果たす」という禁令もあったようで、実際、詰め腹を斬らされた隊員達
	も大勢いるので、このような禁令を出さねばならぬほど、組内には不心得者や脱走者があいついでいたに違いない。

晩年の永倉新八






	上左:
	奥沢栄助らの墓。奥沢栄助は池田屋で即死し、重傷を負った安藤早太郎は池田屋襲撃(6月5日)から一月半経った7月22日に死亡し、
	新田革左右衛門もその前後に死亡している。三人とも、池田屋襲撃では三班に分かれた近藤勇組に属し、この三人は池田屋の裏口を固め
	ていた。この裏口の先に長州藩邸があり、ここへ逃げ込めば治外法権で新撰組は手が出せないため、襲撃直後、長州邸へ逃げ込もうとす
	る十数人の浪士達にめった斬りにされたのである。駆けつけた近藤勇は三人に替わって裏口を守るが、多くの浪士はもう長州藩邸へ逃げ
	込んだ後だった。

	上右;
	河合耆三郎(1838-1866)の墓。河合は新撰組結成当時の勘定方(経理)だったが、ある時組の勘定が合わなかった。とがめられた河合
	は、不足分を商家であった実家に無心するが間に合わず、公金着服のかどで処分された。結成間もなく、烏合の衆であった新撰組隊士達
	を律するためにことさら厳しく罰したのだが、脱走や狼藉を繰り返していた隊士達に対する「見せしめ」の犠牲者だった。前述の「禁令」
	もこの頃に定められたとおもわれる。




	芹沢鴨と平山五郎の墓。碑文に刻まれる「9月18日」は葬儀の行われた日である。殺害犯人は長州人として処理されたが、勿論近藤勇
	の差し金によるもので、土方歳三と沖田総司が芹沢を刺した。



上の石碑は近藤勇の遺髪を収めた「髪塚」。

















壬生寺から5,6分の所に新徳寺がある。


	将軍上洛をひかえた徳川幕府は、文久二年(1862)十二月、ある提案を受けて江戸で浪士隊隊員を募集する。京都で幕府に不満を持つ
	浪人達が「天誅」と称して幕府役人を暗殺していたことに対し、浪人には浪人で立ち向かわせようとしたのである。これに応募したの
	が、江戸で無為に日日を過ごしていた旗本御家人の次男三男坊たちや、ひたすら侍になることを夢見て剣術に励んでいた近藤勇、土方
	歳三たちだった。29才まで定職にもつかずぶらぶらと剣術にばかり励んでいた土方などは、日野の佐藤道場の仲間である小島鹿之助
	に宛てた年賀状の中で、この募集を「お年玉」と喜んでいる。




	■新徳禅寺
	江戸を発った浪士隊234人は京都に到着し、壬生村の新徳寺に身をよせた。壬生に到着した夜、浪士隊のリーダー格だった清河八郎
	は浪士全員を本堂に集め、突然「尊皇攘夷の先鋒たらん」と檄を飛ばしたのである。つまり幕府ではなく朝廷に仕えようというのであ
	る。将軍警護ということで参加した浪士達は、あ然とする。侍になるのが夢だった近藤グループなどは当然面白くないが、浪士の大半
	は清河に同意し、翌日、朝廷から「攘夷決行」のお墨付きを貰うのに成功した清河は、大半の浪士を率いて江戸へ去った。壬生村に残
	ったのは近藤ら試衛館組と水戸派のわずか13人であった。残留組は会津藩主で京都守護職であった松平容保に身分保障を求めた。こ
	れが「新撰組」の結成へつながる。京都残留組には、芹沢鴨、新見錦、平山五郎、近藤勇、山南敬助、近藤勇、土方歳三、沖田総司ら
	がいる。現在、新徳寺は一般公開されていない。








	■新選組屯所跡八木邸
	芹沢鴨、近藤勇らが初めに屯所としたところ。屋敷内には芹沢鴨らが暗殺された部屋があり、その時の刀痕が鴨居と柱に生々しく残る。






	■壬生浪士
	筆頭局長:芹沢鴨(1827年 - 1863年) 局長:近藤勇(1834年 - 1868年) 局長:新見錦(1836年 - 1863年) 
	副長:山南敬助(1833年 - 1865年) 副長:土方歳三(1835年 - 1869年)
	<新選組>
	局長:近藤勇(1834年 - 1868年) 副長:土方歳三(1835年 - 1869年) 総長:山南敬助(1833年 - 1865年) 
	参謀:伊東甲子太郎(1835年 - 1867年)
	隊長
	1番隊:沖田総司(1842年 - 1868年) 2番隊:永倉新八(1839 - 1915年) 3番隊:斎藤一(1844年 - 1915年) 
	4番隊:松原忠司(1835年? - 1865年) 5番隊:武田観柳斎(1830年 - 1867年) 6番隊:井上源三郎(1829年 - 1868年) 
	7番隊:谷三十郎(? - 1866年) 8番隊:藤堂平助(1844年 - 1867年) 9番隊:鈴木三樹三郎(1837年 - 1919年) 
	10番隊:原田左之助(1840年 - 1868年)














	■新選組屯所跡前川邸 
	八木邸とともに初めの屯所となったところ、浪士密会の池田屋を古高俊太郎拷問により問い質したところとして有名。古高拷問の蔵、
	野口健司、山南敬介の斬首のあった中庭、隊士が切り付けた刀痕が残る出窓などがある。今も重厚な長屋門があり当時を彷彿とさせ
	るが、民間の所有のため内部の一般公開はしていない。玄関を入ったところに「新撰組ショップ」がある。














	浪士隊を引き連れて江戸からやってきた清河八郎(きよかわ はちろう)という人物はまことに得体がしれない。もともとは出羽国
	庄内藩領清川村(現・山形県東田川郡庄内町)の郷士の子である。

	「虎尾の会」を結成し、横浜の外国人居留地を焼き討ちし、尊王攘夷の精神を鼓舞し、倒幕の計画をたてたが、この計画が幕府の知
	るところとなり、人も斬り捨てたため幕府に追われる立場となっていた。京都に潜伏したり、東西諸国を遊説してまわり、尊攘倒幕
	の内約をとりつけたりしている。その後、幕府政事総裁であった松平春嶽に急務三策、「1. 攘夷の断行、2. 大赦の発令、3. 天下
	の英材の教育」を進言する。尊攘志士に手を焼いていた幕府はこれを採用し浪士組が結成された(前述234名)。幕府に追われて
	いた人物が幕府のために施策を上申したのである。

	文久3年(1863)2月23日、将軍徳川家茂上洛のさい、その前衛として八郎は盟主として浪士組を率いて京都へ出発。京都に到着
	した夜、八郎は浪士を壬生の新徳寺に集め本当の目的は将軍警護でなく、尊王攘夷の先鋒にあると述べる。これに反対したのが、近
	藤勇、土方歳三、芹沢鴨らであった。鵜殿鳩翁が浪士組隊士の殿内義雄・家里次郎の両名に、京に残留することを希望する者の取り
	まとめを依頼し、根岸友山、芹沢鴨、近藤勇らが残留し八郎と袂を分かつ。彼らは壬生浪士(壬生浪)となり、後に新選組へと発展
	してゆく。二百名の手勢を得た八郎は翌日、朝廷に建白書の受納を願い出て幸運にも受理された。このような浪士組の動静に不安を
	抱いた幕府は浪士組を江戸へ呼び戻す。八郎は江戸に戻ったあと浪士組を動かそうとするが、京都で完全に幕府と対立していたため
	狙われていた。文久3年4月13日、幕府の刺客、会津藩士佐々木只三郎、窪田泉太郎など6名によって麻布一ノ橋で討たれ首を切
	られた。享年34歳。『女士道』によると首は石坂周造がとりもどし、山岡英子(山岡鉄舟の妻)が保管し遺族に渡したという。
	八郎死後、幕府は浪士組を新徴組と改名し庄内藩預かりとした。





新撰組の頃の嵐山「渡月橋」。なんとまぁ、たった百年で。














	■光縁寺
	同寺の本堂裏手の墓地には、山南敬介、河合耆三郎、大石造酒蔵らの墓があり、野口健司、谷三十郎、藤堂平助、伊東甲子太郎ら25
	人の隊士が過去帳に記されている。いずれも隊規に背いたかどで命を落とした隊士達である。これらの隊士をねんごろに弔ったのが、
	当時の住職・良譽上人であった。山門を入り受付で志納金百円を納めると、住職の説明が聞け、案内書がもらえる。寺の向かいには、
	新選組の馬小屋があったという。









阪急「四条大宮駅」前で三々五々解散となりました。







第4回歴史ウォーク / 新撰組の生きた証を訪ねて