第7回 歴史ウォーク 熊野古道を歩く ■日 時 :平成27年8月27日〔木〕・28日〔金〕 一泊  会費:交通費別3,000円(交通費自己負担) ■訪問先 :熊野古道を(内田○○先輩の別荘に一泊して、翌日)半日歩きます。 ■詳 細 :参加希望者におおまかなプランをお伝えします。希望者は7月中に下記までご連絡ください。 ■連絡先 :幹事・73期井上 電話:090-6666-ohmen/メール:himiko@火星.zaq.jp(出来るだけmailで)
大阪は千里中央に集合して、水野さんと松尾さんの車で熊野の内田邸を目指した。今回は内田邸に一泊させて 貰って、翌朝熊野古道(のホンの一部)を歩こうという企画である。宿泊人数に限りが有るので、今回は募集 を早めに締め切り、一部にはご迷惑をおかけした事もあったようですが、平にご容赦を頂きたいと存じます。 途中「熊野道の駅」のようなところで昼食。郷土料理が旨かったですね。
内田邸到着。


内田さんの個人情報が満載ですので、このコーナーにはパスワードを設けようかと思いましたが、内田さんが、 「全然気にしない」との事ですので、そのままにしました。内田さん、ありがとうございます。尚、このHP 全般にわたって、写真にヨットの絵がついているものは、前支部長松尾さんの撮影です。 松尾さん、ありがとうございました。
 
-------------------------------------------------------------- 熊野古道出発点  大阪天満橋 -------------------------------------------------------------- 平安時代、京都の貴族達は上皇・天皇も含めて熊野三山詣でと称し、しばしば、遠く和歌山の熊野大社本宮、 那智大社、熊野大社新宮へ参詣の旅を行った。何故に熊野の地が信仰の対象として選ばれたのか、現在でもそ の学問的な研究は続けられている。貴族達の参詣は多くが、従者、運搬人、護衛、女官等々を引き連れての一 大行軍であった為その行列は延々と続き、当時から「蟻の行列」と揶揄されていたようである。 一行は京都から船で淀川を下り、現在の大阪市天満橋あたりで上陸しここから熊野詣でを開始した。現在天満 橋の京阪電車駅の向かいには、その船着き場である「八軒家」の跡を示す標識と、その100mほど西に「熊野か いどう」を説明した石碑が建っている。熊野詣では中世になっても大いに栄え、貴族達ばかりではなく一般庶 民も参加して大賑わいとなった。このかっての熊野詣での路を、現在「熊野古道」と呼んでいる。    熊野古道は、大阪から熊野へ向かう紀伊路の他にも、伊勢から熊野へ入る伊勢路もあった。大阪からの路は、 和歌山の田辺で山中へ入り熊野本宮へまず向かう中辺路(なかへち)と、海岸沿いに新宮、那智大社から廻る 大辺路(おおへち)とに分かれる。紀伊路の経路は現在の主要幹線道路とほぼ一致している。九十九王子とい うのはこの道中にあって、旅の疲れを癒したり遙かな熊野の地を拝して旅の安全を祈願したりする為設けられ た神社兼休憩所の事である。神社としての祠は建っていたが、御休処としての性格の方が強かったようだ。 王子は実際に九十九社あった訳ではなさそうだ。現在伝えられている王子跡は95である。(注:紀伊路と伊勢 路は代表的な熊野古道であって、勿論この他にも熊野へ至る路はいくつもある。京から南下して十津川村を通 る路や高野山を回ってくる高野路などである。しかし大多数の人々は紀伊路と伊勢路を利用した。) 時代の変遷とともに、熊野古道は最盛期とは異なる経路になったり、幾つかのルートの移り変わりがあり、江 戸時代に入ると九十九王子の多くは消滅していたようである。紀州藩は紀伊、伊勢にまたがる広大な領地を持 つためこの熊野古道の整備に注力し、室町以来の戦乱で荒廃した社寺の復旧など文化財の保全に取り組んだ。 おかげで往時ほどではないにしても、江戸時代になっても熊野詣での参詣客は続いた。おそらく江戸時代の人 々も、熊野古道の途中で休憩しながら遠く平安朝の人々の熊野詣でに思いをはせていたに違いない。 しかし明治時代の神仏分離令、神社合祀令などが原因で王子の衰退消滅が相次いだ。和歌山県では、現在熊野 古道にかかる各市町村と共同でこの古道を復活させ、新たな観光資源として活用すべく、目下一大キャンペー ンを継続中である。 作家の神坂次郎氏は、熊野の歴史や信仰を訪ねるなら熊野古道を当時と同じように歩くしかないと書いている が、現在では、かっての熊野古道を歩いて走破しようという人はまずいまい。車で近くまで来て少しだけ雰囲 気に浸ってみる。殆どの人がこのパターンである。全路線走破するような時間は、とても現代人には無い。


滝尻王子に、熊野古道全般の解説、資料の配付等を行っているガイダンス施設「熊野古道館」がある。



















	鳥居の下で内田さんがなにやら外人さんと話し込んでいる。聞けば熊野古道を歩きに来たフランス人だった。
	内田さんが海外勤務が永いとは聞いていたが、フランス語もしゃべれたんだ! いいなぁ外国語をしゃべれ
	る人は。羨ましい。だいたい、昔の西南大卒業生は喋れる人が多いよね。我々がぼんくらなだけか。









滝尻王子を抜けて、いざ、熊野古道へ。





歩き出してすぐ、巨岩が目の前に出現した。



「急な坂道」! いきなりかいっ。我々が歩こうとしている道はたったの3.7kmなのだが、これがしんどかった。





「えぇえーっ。ココを昇って行くん?」と早くも前途に不安が。「こりゃハイキングじゃん!」









	どういう訳で「王子」という名前が付いたのかはよく分からない。「熊野古道館」にそれっぽい解説があった
	けれども、何か要領を得ない説明だった。平安から鎌倉にかけて随分と賑わった熊野古道も、中世に入ると応
	仁の乱や南北朝を経て日本は本格的に「戦国時代」へ移行するので、熊野古道も荒れ果ててしまった。
	江戸時代に入り、世の中が安定してくると紀州藩は熊野古道を整備し、王子も一部復活させた。お陰で庶民も
	加わって「熊野詣で」がまた脚光を浴びるようになった。「お伊勢〜♪七たび、熊野にゃあ♪〜さぁん度」と
	謳われてかっての賑わいを取り戻したのである。



澤さんが何か見つけて叫んでいる。「ほら、あれあれ」何でしたっけね。



まだ700mしか来ておりません。前途3kmか。



	紀州藩主になった徳川吉宗は、将軍職に就くとき紀州から多くのものを江戸へ持って行った。東京都北区飛鳥
	山周辺には紀州(和歌山)ゆかりの地名が沢山残っているが、それは吉宗が紀州から持ってきたものである。
	明治に入って飛鳥山に大がかりな製材所・製紙工場が出来たが、その会社の名前も吉宗時代の呼び名に拠って
	いる。即ち「王子製紙」である。王子製紙の友人はさすがにその故事は知っていた。











やっと展望台へでました。ここまで来れば高原神社までもうすぐ。









でも無いか。まだ2kmあるんだ。







一般車道と交わってます。ここで車道を横切る。















お地蔵さんやNHKの電波塔を横目に見て。







またまたお地蔵さんに遭遇。今度は「夫婦地蔵」だと。







写真になにやら影が。さては熊野の物の怪か、と思ったら単なるレンズの汚れでした。





上空から見た高原(たかはら)の里。



「あ、内田さんちが見えてる!」「どこ?」「あそこや、あそこや」「え、どこ?どこ?」









「お陰様でやっとここまで歩いてこれました。主のお助けに感謝します、アーメン」神仏混合やね。





樹齢ん十年という樫(樟だったか?)の木。広がりきった枝は、まるで日本経済の伸張をみるような、ってお前は経済学者か!







ん?、これは誰が写したのかな?
















	上の茶店(休憩所)からすぐの、山の中腹にタレントのイーデスハンソンさんの自宅がある。大きな屋敷が二
	軒建っていた。1軒は彼女の旦那さんの両親の家だそうだ。ハンソンさんがここに居を構える事を決意した後
	広島から移ってきたとの事。彼女も熊野に取り憑かれた一人なのだ。茶店のおばさんが「ほら、あそこだよあ
	そこ」と指さして教えてくれた。世間話をしながらラムネを飲んだ。この休憩所からの中辺路町の風景もすば
	らしい。霧の高原町(「こうげん」と呼ばず「たかはら」と呼ぶ。)の名の通り霧がすごい所のようだ。何枚
	か写真があったが幻想的だった。霧の時もう一度来たいものだ。



	
	ちなみに、どうしてイーデハンソンさんが茲に居を構える事になったのかという話を茶店のおばさんがしてく
	れた。何でも彼女は幼少期に、父親の仕事の関係でチベットで暮らしていたことがあるそうな。その時の光景
	がこの場所にそっくりだったそうだ。それって住民にとっては嬉しいのか哀しいのか、意見の分かれる処では
	ある。











この近在では唯一の(?)ホテル。外人さんも多く、昼時には満杯になった。













近所で取れた山菜も加わって素朴な昼の定食。歳とるとこういうご飯がめちゃ旨くなるけど、人間って不思議ね。



何やら壁に付いているなと思って近づくと、何と何と、裸婦が壁にめり込んでいるのだった。




	めちゃしんどい登りの熊野古道だったけど、ああいう山道を五百人もの行列が登っていたとは、とても俄には
	信じ難い。しかも、我々が歩いたのは京都からの行程の百分の一にも満たない。何が上皇達を熊野へ駆り立て
	ていたのだろうか。熊野には一体なにがあったというのだろう。興味は尽きない。

	帰り道、有田川町を通った時<明恵上人生誕地>という大きな看板が立っていた。前回の西南ハイキングで行
	った、京都の高尾寺、神護寺の名僧である。「あぁー、ここかぁ」と叫んだが、無情にも松尾さん運転の車は
	一瞬で通り過ぎてしまった。参加者の皆さん、お疲れ様でした。楽しかったですねー。

	内田さん、奥様、大変お世話になりました。感謝です。
	宏大な敷地にも驚きましたが、そこでご夫婦むつまじくCountry LIFEを満喫されている姿に感動しました。澄
	み切った空気、心地よい小川のせせらぎ、どこまでも青い空と山並。羨ましい暮らしがありました。いつまで
	もお元気で仲良く、また、我々後輩の訪問を受け入れてください。
	ありがとうございました。



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