第六回 歴史ウォーク「黒田官兵衛幽囚の伊丹を歩く」
【有岡城落城!と 伊丹の酒蔵 】
■日 時 :平成26年11月8日(土曜日)
■集 合 :JR伊丹駅西側 AM10:00集合
■持 参 :弁当、替着、防寒着、雨具他
■コース :JR伊丹駅−有岡城趾−荒村寺−伊丹郷町砦跡−みやのまえ文化の郷 ー稲名野神社
ー白洲次郎実家の跡−和泉式部の墓−JR伊丹駅
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」が終了した頃を見計らっての復習企画です。伊丹にお住まいの
方はもう何度も訪問されたでしょうが、宜しければ是非またご参加下さい。
有岡城(伊丹城)
大河ドラマに併行して、荒木村重の有岡城を訪ねましたが、伊丹市でも大河ドラマに合わせた
取り組みをしていて、町並みも随分とキレイになっています。「伊丹ロマン事業プロジェクト」
というのがその試みのようで、至る所でその表示がありました。
ま、町おこしで町がキレイになるのは良いことだし、大河ドラマもそう言う意味ではだいぶ村
興しに貢献していると言う事なのでしょう。
JR伊丹駅周辺はめちゃ複雑です。福知山線(元は何とか軌道)を作るのに有岡城を半分削って、
歩道橋やら城跡公園やらを作っているのでごちゃごちゃしています。この伊丹駅も元は有岡城の
中なのです。大河ドラマで脚光を浴びるようになって、荒木村重も最近の評価では謀反人では無
くて有能な戦国武将だったという説も飛び出して、城を削った連中は草葉の陰で後悔しているか
もしれませんね。
駅のホームから歩いてきた歩道橋の広場に、何やら火の見櫓のようなモニュメントと有岡城の
説明板がありました。
有岡城は「惣構(そうがまえ)」と呼ばれる城壁で囲まれた城下町でした。中世の西欧都市のよう
ですね。
<伊丹城(有岡城)>
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城郭構造 平城
天守構造 不明
築城主 伊丹氏
築城年 南北朝時代
主な改修者 荒木村重
主な城主 伊丹氏、荒木村重、池田之助
廃城年 天正11年(1583年)
遺構 石垣、土塁、堀跡
指定文化財 史跡(国指定)
伊丹城は有岡(ありおか)城ともいう。兵庫県伊丹市にある城。国の史跡に指定されている。
南北朝時代、摂津国人の伊丹氏によって建築され、文明4年(1472年)には改築され、それ
までの伊丹城が日本最古の天守台を持つ平城となった。
しかし天正2年11月5日(1574年11月18日)荒木村重によって攻め落とされ、のちに伊丹氏の
伊丹城を大改修し、有岡城に改称した。荒木村重は後に謀反を起こし、有岡城は織田信長に
攻められて落城することになる。
大坂城や江戸城などにもあった惣構えの最古(2005年現在)の遺構が発掘された。城の東側
を流れる伊丹川との間は崖になっており、さらにその東側には駄六川と猪名川が流れており、
これらの河川が天然の要害となっていた。
<伊丹城・有岡城の略史>
南北朝時代:伊丹氏により築城。伊丹城と称する。
天正2年(1574年):荒木村重が城を落として大改修。ついで、有岡城と改称。
天正7年(1579年):村重謀反により織田軍に攻められ落城。
天正8年(1580年):池田之助が城主になる。
天正11年(1583年):之助が美濃に転封されることにより、廃城。
明治26年(1891年):鉄道敷設の為、当城東側破壊。
昭和50年(1975年):発掘調査開始。
その後史跡公園として整備され、現在に至る。
<現在確認可能な残存遺構>
伊丹城井戸跡 有岡城石碑石垣 土塁 井戸跡 堀跡 など。
岸の砦跡(北曲輪の跡) 伊丹市宮ノ前3-6-1(猪名野神社境内西側)など、その他市内各所
に遺構がある。
<その他>
黒田如水は当城内にあった牢内に幽閉されていた時期があった。信長に反旗を翻し城に籠もっ
ていた城主の村重は、家宝の茶壺である兵庫壺を背負い、名鼓「立桐筒」を腰に結わえ、少数
の家臣と共に尼崎城に移ったという。逃亡という説もあるが、その後有岡城が直ぐに落城しな
かったところから、同盟を結んでいた毛利と連絡を図るためとの説がある。
残された家臣は堅城を恃みによく戦ったがついには内応により落城する。猪名野神社の紋章は
村重を従えていた織田家の家紋(織田木瓜)である。城跡南東には「荒村寺」と言う村重の由
来を感じさせる寺があり、伊丹城・有岡城で亡くなった人達の慰霊碑がある。又城跡南西には
「墨染寺」と言う寺があり、謀反後に処刑された荒木家由来の人々の墓がある。
<所在地>
本丸跡 伊丹市伊丹2丁目(JR伊丹駅西側。有岡公園内)
歩道橋の上から見た有岡城の主郭部分。今は有岡城と言ってもこれしか残っていません。いま、
伊丹の歴史サークルでは、黒田官兵衛幽閉の牢跡探しが話題だそうです。
歩道橋から見た「荒村寺」の慰霊碑。第二次大戦の慰霊碑かと思ったら、有岡城攻防の慰霊碑
だそうで、なんと昔の慰霊碑だこと。あの下に荒村寺があります。
歩道橋から降りてきて眺める有岡城全景
本日のオールキャストでございます。本日もご覧頂いてありがとうございました。
築城当時の有岡城の推定復元図
この石垣の裏手、林の中に崩れかけた石垣が僅かに残っており、このあたりが官兵衛幽閉の土牢
である可能性が高いそうです。見に行きましたが勿論それとは分かりませんでした。写真も写し
たつもりなのですが、どこかへ消えてしまいました。村重の怨霊が消し去ったのかも。
石垣に仏様を使うのは、この時代どこの城にも見られます。昔はそんなに石に困っていたのかと
思っていましたが、どうも別の意味があるのかもしれない。つまりお城を仏が守ってくれるよう
にしたかったのではないかと最近思うようになりました。
大和郡山城などは仏様が石仏のまま石垣に組み込んであるし、安土桃山城の石段は、仏様の像を
足で踏んで上っていくようになっています。仏様までかり出して、侍という奴らは何と罰当たり
な奴らじゃと当初思っていましたが、そんなに石に困っていたわけでは無く、仏の加護を願った
のだろうと思います。
こういう記事を読むと、これまで抱いていた荒木村重に対するイメージが違ったものになります。
「反旗を翻した謀反人」「妻子を捨てて一人で逃げた卑怯者」「コロコロ反旗を翻す変節漢」と
いうイメージとはどうも違う人物のように思えてきます。戦国時代、武将達は盟友関係を結んで
は裏切り、自領の領地拡大にやっきとなるので変節漢は世の常だったのですが、それにしてもこ
の荒木村重の有岡城落城の後の人生は不思議です。我々が思うよりもっと複雑な人間だったのか
もしれません。
<荒村寺>
所在地 兵庫県伊丹市伊丹1丁目15-2
山 号 古城山
宗 派 曹洞宗
本 尊 十一面観音菩薩
荒村寺(こうそんじ)は兵庫県伊丹市にある曹洞宗の仏教寺院。この地は伊丹字古城と呼ばれ、
有岡城跡の一部で、寺の由来記によると、伊丹郷町の木綿屋徳三郎が禅宗に深く帰依し、堺町
にあった閑室に嘯山虎渓和尚を招いて参禅したのが始まりです。
天保年間(1830年〜1843年)に一妙法国尼を開基とする尼寺となり、城山庵と号しましたが、荒
木村重の古城跡の由緒から荒村庵と改めました。その後昭和39年(1964年)、寺号も荒村寺と改
めました。昭和52年(1977年)JR伊丹駅前周辺整備により、有岡城跡の現在フランドル鐘(カリ
ヨン)のある辺りから現在地に移転してきたようです。
<境内>
行者堂 竜王堂 稲荷堂 応安7年(1374年)の宝篋印塔(一部分は現在手洗い鉢として使用)
荒木村重だから「荒村寺」なんて、何とイージーなネーミング!伊丹駅からは徒歩約3分
<伊丹郷町>
ホームセンター「ニトリ」の横に「伊丹郷町」の説明板があって、有岡城大溝の説明もあ
ります。ま、町全体が城内だったのだから至る所に遺跡はあるのですが。
我々が大溝を覗いていると、通りすがりの人たちが「お、何や何や」という感じで同じように
覗き込んでいた。
上は清酒「白雪」のSHOP。下の写真の酒蔵と続いていて、酒蔵は巨大なレストランになっ
ています。
「ロマン事業」に沿って整備された町並み。酒造の町らしいたたずまいが続く。
<みやのまえ文化の郷>
みやのまえ文化の郷は 美術館、工芸センター、伊丹郷町館(旧岡田家住宅、旧石橋家住宅、
新町家をいう)に(財)柿衞文庫を加えた文化ゾーンの愛称です。江戸時代の商家や酒蔵の
文化財と日本庭園も常時公開しています。
向いのスーパーへ弁当、ビール等を買い出しに行ったメンバーを待つ。
■旧岡田家住宅(店舗・酒蔵)
戸時代の延宝2年(1674年)に建てられた町家で、建立当初から酒造業を営んでいました。
岡田家の所有となったのは明治33年。店舗は、兵庫県内に現存する最古の町家で、年代が
確実な17世紀の町家としては全国的にも貴重。酒蔵は、現存する最古の酒蔵で、江戸時代
に隆盛を極めた伊丹の酒造業の歴史を今に伝える重要な文化財です。平成4年1月21日重要
文化財に指定されました。内部には伊丹の酒造業の歴史の展示を行なっています。
上下はクリックで拡大します。
上はクリックで拡大します。
■旧石橋家住宅
江戸時代後期に建てられた商家。主屋の正面は、つし二階の塗り込めの軒裏と虫籠(むしこ)
窓、出格子窓、正面の摺(す)り揚げ大戸の出入口装置やバッタリ床几(しょうぎ)、揚見世
(あげみせ)など、建設当初の店構えを残していることから、平成13年に県指定文化財になり
ました。石橋家は、18世紀に猪名野神社の門前通り北少路村に移り住んで商売を始め、明治
以降、紙と金物の小売業のかたわらに酒造業を始め、日用品の雑貨商を営んでいました。
上はクリックで拡大します。
<金剛院>
伊丹郷町から猪名野神社を目指して整備された町並みを歩いていると、神社の前に金剛院と
いうお寺がありました。入ってみましたが、寺だと思うが中に鳥居があって「神仏習合」の
名残なのかそれとも何か由緒があるのかよく分かりませんでした。
お寺の中に鳥居です。
うぅ〜ん、寺だと思うんだがなぁ。寺の境内に鳥居とはいかにもそぐわない気がする。ま、しかし
日本らしいとも言える。薬師如来も弁財天も居るし。
<稲名野神社>
戦国時代、荒木村重の居城「有岡城」の惣構(がまえ)北端を防御する「きしの砦」。
西側には土塁が残っている。JR伊丹駅西側の有岡城本丸跡とともに国指定史跡となっている。
江戸時代、きしの砦跡に築かれた猪名野神社は、伊丹郷町の氏神。祭神は牛頭天王。明治以降、
素盞嗚(すさのお)神。本殿は貞享3年(1686年)建立。境内には酒造家・商人らの寄進した
97基の石灯篭が並んでいる。
元禄16年(1703年)以降、「お渡り」という祭礼が行われていたことが「猪名野神社神幸絵巻」
(市指定文化財)に描かれている。また、境内にあるムクロジ(無患子)は、樹高約13.5メー
トル(指定時)の巨木で、昭和61年に市指定文化財となっている。
<猪名野神社>
主祭神 猪名野坐大神(素盞嗚尊)
創建 不明(904年(延喜4年)との説あり)、1686年(貞享3年)本殿建立
例祭 春祭4月23日、夏越祭6月30日、夏祭7月16日、秋季例大祭10月13、14日
<本殿>
猪名野神社は、兵庫県伊丹市に鎮座する神社。猪名野坐大神(素盞嗚尊)を主祭神とし、誉田
別尊(ほむだわけのみこと:応神天皇)ほか4柱を配祀する。言い伝えによれば、904年(延喜
4年)の創建という。1686年(貞享3年)に本殿が再建されている。戦国時代に有岡城の北端に
位置し、惣構えの「岸の砦」が置かれていた。本殿裏に鎮座する末社の北側と境内西側を南北
に走る道路の間に土塁が残っている。拝殿には清酒発祥の地伊丹に関連する酒造業者の酒樽が
寄進されている。境内には小規模な公園があり「伊丹市立相撲場」の土俵が設置されている。
毎年、市内在住の小学生を対象とした相撲大会が開催されている。
本殿周辺には、摂社、末社が幾つも並んでいる。
郷土の俳人、鬼貫の句碑もあった。
上島鬼貫(万治四年(1661)〜元文三年(1738)は伊丹の有力な醸造家に生まれ、早くから俳諧に
親しんだ。25歳で大坂に出て、筑後の三池藩などに経済担当として仕えた。俳諧については、
当時流行の伊丹風にあきたらず、「まことの外に俳諧なし」と主張。東の芭蕉、西の鬼貫と並
び称されている。
「鬼貫」は「おにつら」と読み「キカン」ではない。生涯貫いた俳号である。初めしばらくは
「鬼つら」(きわめて稀に「ヲニ貫」)と書いたことがあるが、以後ずっと「鬼貫」、晩年に
は「おにつら」と称した。
当時は、まだ俳諧は和歌の下に見られており、和歌の貫之に対して俳諧の貫之を任じた意気の
表れで、醜と鬼は同意義語で「鬼の貫之」を意味する「鬼貫」を使ったのではないかという説
(岡田利兵衛)がある。
上の写真で、金網の向こうに土手が見えているが、これが「岸の砦」の堤防跡である。
このあたりが「岸の砦」の土塁跡のようだ。下がその土塁。何も案内が無いのでしかとは不明。
猪名野神社の裏手から、猪名川堤防沿いにずーっと緑地帯が作られている。ここを延々と行けば、
和泉式部の墓があって、更に行けば「猪名川の渡し」へ行き着く。
かすれて誰の何という句かわからん。
<白州次郎生家跡>
ここだけ歩けるように作ってある狭い散歩道をぐんぐん行くと、何やら石碑があった。
何と有名な白洲次郎の実家の跡だった。この辺りに四万坪の邸宅があったのだ。
四万坪ですぜ、旦那。
4万坪ねぇ、ふーむ。昔の金持ちはホンマ桁がちゃいまんな。
この小さな公園で昼食を取った後、伊丹緑地をさらに歩いて「伝和泉式部の墓」へゆく。
伝だから信憑性は薄い。しかしま、ここにこんなものが残っているというのは、やはりなんらか
の歴史的な事象が何かあったのかもしれない、と考えた方がおもしろい。
<伝和泉式部の墓>
和泉式部に関する遺跡・逸話は、ウィキによれば全国にあります。
岩手県北上市 - 和賀町竪川目に墓所がある。付近が出生地あるいは没地と伝えられ、ここが和泉式部
伝説の北限とされる。早世した小式部を哀れんだ隣人が五輪塔を建てたという伝説に準えて明治2
年に奉建された五輪塔などがある。
福島県石川郡石川町 - この地方を治めた豪族、安田兵衛国康の一子「玉世姫」(たまよひめ)が和泉
式部であると言い伝えが残る。式部が産湯を浴びた湧水を小和清水(こわしみず)、13でこの地を
離れた式部との別れを悲しんだ飼猫「そめ」が啼きながら浸かり病を治したといわれる霊泉が猫啼
温泉として現存する。
岐阜県可児郡御嵩町 - 旧中山道の途中に和泉式部の廟所と言われる石碑が存在する。同地に伝わる伝
承によると晩年は東海道を下る旅に出て、寛仁3年(1019年)にここで病を得て歿したとされてい
る。碑には「一人さへ渡れば沈む 浮橋に あとなる人は しばしとどまれ」という一首が刻まれて
いる。
大阪府堺市西区平岡町 - 居宅跡である「和泉式部宮」がある。
大阪府岸和田市 - 阪和線下松駅周辺の大阪府道30号大阪和泉泉南線沿いには和泉式部にまつわる池、
塚などが存在する。
兵庫県伊丹市に和泉式部の墓所がある。
京都府京都市右京区太秦 - 太秦和泉式部町という地名がある。
京都府亀岡市 - 称名寺に和泉式部の墓所があると伝えられる。
山口県山陽小野田市 - 和泉式部の墓所がある。
佐賀県白石町/嬉野市 - 白石町の福泉禅寺で生誕し、嬉野市の大黒丸夫婦に育てられたとされる言い
伝えがある。寺には故郷を偲んで詠んだとされる和歌の掛け軸が伝わっており、境内には歌碑と
供養塔が建立されている。
これらの逸話や墓所と伝わるものは全国各地にありますが、いずれも伝承の域を出ないものが殆どで
す。柳田國男は、このような伝承が各地に存在する理由を「これは式部の伝説を語り物にして歩く京
都誓願寺に所属する女性たちが、中世に諸国をくまなくめぐったからである」と述べています。
上の伊丹市の案内にもそう書いてあります。
<反省会と称する打ち上げ会>
伊丹郷の町へ戻って、「長寿蔵」を改造したレストランの中で、反省会と称する打ち上げ会です
ま、早い話が、この為に集まってきているような感じです。井上の主宰する歴史倶楽部の連中も、
結局は呑みたいために歩いているような所があります。しかし、もうそれでいいのだろうと思い
ます。ワイワイガヤガヤ、みんなで楽しくという世界が何時までも続くのは、平和な証拠です。
私(井上)の知っている関学出の、住友系ソフト会社の役員は大学時代ヨット部だったそうで、
今でも月に一回集まって西宮港から出航するそうですが、沖へ出た途端、酒盛りだそうです。
船は大丈夫なんかいと聞いたら、「ぶらぶら漂っているだけですわ」と言っていました。いつか
衝突しなきゃいいが。
古賀ッチ奥さん裕美ちゃんも、地ビール聞き酒(?)を試しています。古賀ッチはこの奥さん
あっての古賀ッチやね、うん。
11名にしては安いですなぁ。一人2,000円いってまへんわ。
終了して
[4] 2014年11月09日 11:07 こがっち こがっち嫁です。
今回初めて二人で参加しました。 さすが井上さんのレクチャー 分かりやすく
楽しかったです! 皆さんもよく歴史の事ご存知でワイワイと 楽しそうでした。
また、お願いしまーす(^_^)/ こがっち嫁
[5] 2014年11月09日 20:12 マッチー
有意義な歴史探訪 筑前さんの詳細資料と軽妙なトーク のんびり ゆったり
行きとどいた コースどり 締めの 大吟醸まで ありがとうございました
またの日を 楽しみにしております
[6] 2014年11月09日 21:09 こがっち こがっち嫁です。
追伸です。
まっちーさん、ご記入の大吟醸でのお店で頂いた酒粕のドレッシングが、美味
しく買いました。
照屋さん
ご参加と聞いておりましたが体調すぐれずで、お会い出来なかったこと、こが
っち残念がっておりました。またお願いしまーす(^_^)/
[7] 2014年11月09日 22:15 クッキー
筑前さん 昨日はお疲れ様でした。 次回の企画を楽しみにしています。
まっちーさん さっそくの写真UPありがとうございます。チビを実感します…(涙)
こがっち嫁さん 酒粕ドレッシング買ったんですね! 美味しかったもんね。
今夜の官兵衛、やっと秀吉さんが死にました。 そろそろ終盤間近目TV
[8] 2014年11月10日 11:31 ポプラ
筑前さん 11月9日 00:07分にアップしたはずが、何とハイキングのトピに
まちがってアップしてました。寝ぼけ眼のせいと言い訳させて。下記にリライト
させて頂きます。陳謝
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穏やかな秋日よりの中、 爽やかな伊丹ロマンを堪能させて頂きました。
20pに渡る筑前師匠手作の資料と現場説明のお陰で、有岡城跡とその周辺の歴史が
よーーく分かりました。「大吟醸」でのビール・ビールの美味しかった事!
どこでも味わえるものではないシロモノでした。 楽しい一日をありがとうございました。
みなさん、のどかな散歩でしたねえ。 お疲れ様です。
[9] 2014年11月10日 11:45 ポプラ
>こがっち嫁さん あら、そちらのテーブルではマッチーーさんが 酒粕ドレッシング
をふるまってくれたのね。 しまったぞーー!
>マッチーさん 今回もフェミニストぶりがキラキラぴかぴか(新しい)光りました。
ついでに全員写真まってま〜す。ありがと。
>クッキーさん ほんと、やっと秀吉が死んでくれました。 すっきりしましたね。
お疲れ様でした!
皆様お疲れ様でした。楽しかったですねぇ。
また次回も宜しくお願いします。