第5回 歴史ウォーク「幽界の京都・幕末の京都を歩く」



【第5回歴史ウォーク 幕末の京都・幽界の京都をあるく】 京都東山の幕末の名所・魔宮六道珍皇寺・花園天皇陵・明智光秀首塚・東山古刹等々を見て歩き、池田屋にて解散 。 昨年中止した歴史ウォークのリトライです。 日 時 : 2013年5月25日(土曜日)  集 合 : 京阪「祇園四条駅」西側出口(歌舞伎座の向い。南側。) AM9:00 持 参 : 弁当・水筒・替え着・雨具・その他。     参加費 : 100円。 行 程 : 陀枳尼尊天 → 建仁寺 → ゑびす神社 → 六波羅蜜寺 →六道珍皇寺 →幽霊飴 →霊山歴史館   → 京都霊山護国神社 →  坂元龍馬の墓 → 霊山観音 → 高台寺 →芭蕉堂 → 西行庵 →    円山公園・八坂神社・坂本龍馬中岡慎太郎像 → 知恩院 → 蓮如上人 誕生地 → 花園天皇十楽院上陵   → 青蓮院 → 白川 → 明智光秀首塚 → 三条・池田屋跡   (途中ドロップアウトされてもOKです。15:00頃終了予定。) 概 要 : 当日資料配付。幹事:73期商経 井上修一(himiko@capricorn.zaq.jp) 京阪四条南座前に集合しました。皆さん場所が判らず、交差点の四隅にだいぶ点在してお待ちでした。 <陀枳尼尊天> 四条の歌舞伎座前を南下し、途中から東へ通りを一本入る。そこに「豊川稲荷・陀枳尼尊天(だきにそんてん)」がある。 陀枳尼尊天には数種類の漢字(陀枳尼天、荼吉尼天、押枳尼天、他にも)が当てられており、元来は女夜叉鬼で人を呪うと いう恐ろしい鬼であったが、仏教に帰依してからは福財をもたらす神として崇められるようになったと云われている。 我国では平安期を境に稲荷神と同体説が言われるようになっている。原始稲荷明神。一方「豊川稲荷」は、日本三大稲荷の 一つと言われ(京都市伏見区の「伏見稲荷」、愛知県豊川市の「豊川稲荷」、茨城県笠間市の「笠間稲荷」)、通称名の 「豊川稲荷」は神社ではなく寺院である。正式には円福山 豊川閣 妙厳寺と号し、御本尊千手観音立像を祀る寺。世間では 「豊川稲荷」の名で広く知られるその「稲荷」とは、妙厳寺の鎮守社として祀られる荼吉尼天のこと。 2013年05月25日 21:44 マッチー お疲れ様でした  昨年 雨天中止になりました“歴史ウォーキング”の仇を討つよう 晴天 まるで夏 日ごろ行くことがないところを井上ガイドの名案内で楽しい日でした 次もよろしくお願いします <建仁寺> 建仁寺(けんにんじ)は、京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院。山号を東山(とうざん)と号する。 本尊は釈迦如来、開基(創立者)は源頼家、開山は栄西である。京都五山の第3位に列せられている。     なお、よく日本最初の禅寺と言われるが、これは間違いで博多の聖福寺が最初の禅寺である。日本に臨済宗を正式に伝え たのは栄西(ようさい、えいさい)がはじめとされている。栄西は永治元年(1141年)、備中国(岡山県)に生まれた。 13歳で比叡山に上り翌年得度(出家)。仁安3年(1168年)と文治3年(1187年)の2回、南宋に渡航した。1度目の渡宋は わずか半年であったが、2度目の渡宋の際、臨済宗黄龍派(おうりょうは)の虚庵懐敞(きあんえじょう)に参禅した。 建久2年(1191年)、虚庵から印可(師匠の法を嗣いだという証明)を得て、帰国する。当時、京都では比叡山(延暦寺) の勢力が強大で、禅寺を開くことは困難であった。栄西ははじめ九州博多に聖福寺を建て、のち鎌倉に移り、北条政子の 援助で正治2年(1200年)に建立された寿福寺の開山となる。その2年後の建仁2年(1202年)、鎌倉幕府2代将軍源頼家 の援助を得て、京都における臨済宗の拠点として建立されたのが建仁寺である。 俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松(かいほうゆうしょう)の襖絵などの文化財を豊富に伝える。山内の塔頭としては、 桃山時代の池泉回遊式庭園で有名であり、貴重な古籍や、漢籍・朝鮮本などの文化財も多数所蔵していることで知られる 両足院などが見られる。また、豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂の塔」のある法観寺は建仁寺の末寺である。寺号は「け んにんじ」と読むが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれている。 伽藍は宋の百丈山に擬して造営された。創建当時の建仁寺は天台、真言、禅の3宗並立であった。これは当時の京都では 真言、天台の既存宗派の勢力が強大だったことが背景にある。創建から半世紀以上経た正元元年(1259年)には宋僧の蘭 渓道隆(らんけいどうりゅう、鎌倉建長寺の開山)が11世住職として入寺し、この頃から純粋禅の寺院となる。建仁寺は、 応仁の乱による焼失のほか、応永4年(1397年)、文明13年(1481年)などたびたび火災にあっており、創建当時の建物 は残っていない。 建仁寺の「風神雷神図」。教科書には必ず載ってます。 建仁寺の中庭。ここはお庭も綺麗です。 海北友松(かいほうゆうしょう)の龍の襖絵 <ゑびす(恵比寿)神社> 京都ゑびす神社は西宮・大阪今宮神社と並んで日本三大ゑびすと称され、「えべっさん」の名で親しまれている。その起源 は約 800年前土御門天皇の建仁2年(1202年)に、禅の祖といわれる栄西禅師が建仁寺建立にあたり、その鎮守として最初に 建てられたもの。今日多くの人はゑびす様と言えば「商売繁盛の笹」をイメージするが、ゑびす信仰の象徴とも言える笹は 元来京都ゑびす神社独自の「御札」の形態が広まったものである。 えびす神社(えびすじんじゃ)は、えびす或いはヒルコ或いは事代主を祭神とする神社。えびす神社は全国に点在し、夷神社、 戎神社、胡神社、蛭子神社、恵比須神社、恵比寿神社、恵美須神社、恵毘須神社などと表記する。また正式名では「えびす」 の語を含まない神社であっても、祭神がえびすである場合「○○えびす神社」と通称されることもある。またおもに関西地域 では、えびっさん、えべっさん、おべっさんなどとも呼称される。 <建仁寺・摩利支尊天堂(まりしそんてんどう)> 建仁寺の塔頭寺院のひとつで正式名称は禅居庵という。本尊の摩利支尊天は太陽の陽炎(かげろう)が神格化されたもので、 「開運・勝利」の鎮守で正式名称は禅居庵(ぜんきょあん)という。摩利支尊天はもともとは、三つの顔と六本の腕を持ち、 頭には宝冠、身には甲冑を着け、七頭の猪に乗っているインドの軍神である。尊天の使いとして、境内にはあちこちで狛犬で はなく、狛イノシシやイノシシの置物、祈願絵馬が見られる。   <六波羅蜜寺> 六波羅蜜寺 (ろくはらみつじ)は、京都市東山区にある真言宗智山派の寺院である。 山号は補陀洛山。本尊は十一面観音。 開基(創立者)は空也(くうや)。西国三十三箇所第17番札所。 踊り念仏で知られる市聖(いちひじり)空也(くうや)が平安時代中期の天暦5年( 951年)に造立した十一面観音を本尊と する道場に由来し、当初西光寺と称した。空也は疫病の蔓延(まんえん)する当時の京都で、この観音像を車に乗せて引きな がら歩き、念仏を唱え、病人に茶をふるまって多くの人を救ったという。 空也は応和3年(963年)に鴨川岸に僧600名を集めて大規模な大般若経供養会を行ったが、この時をもって西光寺の創建とす る説もある。当時、鴨川の岸は遺体の捨て場であり、葬送の場であった。平安時代以前のこの一帯は、五条から今熊野あたり にかけて、死者がうち捨てられる風葬の地「鳥辺野」だった。平安中期に空也上人が念仏を唱えて供養するまでは、成仏でき ない霊魂のひしめく地であったと思われる。その入り口にあたる松原通の六道珍皇寺(ここより北すぐ)から西福寺のあたり は六道の辻と呼ばれ、この世とあの世の境界とされていた。 六道珍皇寺に祀られる小野篁(おののたかむら)はこの世とあの世を行き来して閻魔大王に使えていたことで有名で、この先 には「幽霊子育て飴」の店もあり、「京都魔界案内」などには必ず取り上げられている一帯である。 <京都名物・幽霊子育飴> 六波羅蜜寺の北に古びた飴屋がある。元は珍皇寺門前にあったらしいが、六波羅名物だそうだ。飴は「子育ての幽霊飴」と呼 ばれ、次のような伝説が店の看板に張ってある。 赤ん坊を抱いた女が毎日三文(さんもん)の飴を買いにきた。不審に思った店の人が女のあとをつけていくと、鳥辺野墓地で その姿が消えた。この話を聞いた近くの寺の住職は、最近臨月で亡くなった女性の墓で念仏を唱えた。すると,土の中から赤 ん坊の泣き声が聞こえた。掘り起こすと、飴をしゃぶる赤ん坊がいた。死してなお子を思う母の執念が、幽霊となって子を養 ったのである。 何と言う、怖ぁ〜。しかし考えて見れば、似たような話はあちこちで聞く。その子供が将来、有名な坊さんになったという話 もどっかで聞いたような気がする。 <六道珍皇寺>  東山区東大路通松原西入小松町 六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ、ろくどうちんこうじ)は、京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は大椿山。本 尊は薬師如来。8月7-10日の六道詣り、小野篁が冥界に通ったと伝わる井戸(寺宝展等の特別公開時を除き非公開)で知られる。 通称六道さん。この付近が「六道の辻」であるとされる。京都「魔界名所」の一つ。 この寺の創建については諸説あって不詳であるが、東寺の文書によれば承和年間(834年〜848年)山代淡海が創建したという。 鎌倉時代までは東寺に属していたが、室町時代に建仁寺の聞渓良聡が入寺して再興、臨済宗に改められた。明治に入り一時建 仁寺に併合された時期もあったが、1910年(明治43年)独立した。毎年8月15日の盂蘭盆(うらぼん)では、先祖の精霊(しょ うりょう)を迎えて供養が行われるが、京都ではその少し前の8月7日から10日の間に精霊を迎えるため、珍皇寺などに参詣 する精霊迎え(六道詣り)が行われる。の間珍皇寺は、水塔婆を納め、迎え鐘をつき、高野槙の葉を求めて精霊迎えする人で賑 わうという。迎え鐘とは境内にある銅鐘のことで、その音が冥土にまで届き、亡き人がこの響きに応じてこの世に呼び寄せら れると信じられた。また、精霊は槙(まき)の葉に乗って冥土(めいど)から家に戻ってくるとされるため、これを持ち帰り13 日目に仏壇に供える。 <小野篁卿旧跡> 平安前期の貴族小野篁(802〜52)は博識多才をもって知られる人物だが、奇行が多くさまざまな伝説の持ち主である。死後、 閻魔庁(えんまのちょう)に仕え、その亡霊が珍皇寺門前の六道の辻から冥府(めいふ)に通ったという伝説が生じた。この伝説 に基づき「小野篁卿旧跡」の石標が珍皇寺前に建てられている。 <六道の辻> 六道とは、仏語で衆生(しゅじょう)が生前の業因により生死を繰り返す六つの迷いの世界。すなわち,地獄・餓鬼・畜生・阿 修羅(あしゅら)・人間界・天上界のことである。六道の辻は,六道へ通じる道の分かれる所の意で、一般的に珍皇寺門前のT 字路をさす。小野篁が冥府との往復を果たしたという伝説から、この辺りが冥界への入口「六道の辻」と称された。珍皇寺内 と西福寺前に六道の辻を示す石標が建てられている。西福寺は、空海が鳥辺野の無常所の入口にあたる地に地蔵堂を建て、自 作の土仏地蔵尊(六道の地蔵尊)を祀ったことに始まると伝えられている。 <清水への参詣道> 六波羅の地は清水寺への参詣道だった。平安時代末期にできた歌謡集『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)には「何れか清水へ 参る道、京極くだりに五条まで、石橋よ、東の橋詰、四つ棟、六波羅堂、愛宕寺、大仏深井とか、それを打ち過ぎて八坂寺」と 記され、鴨川に架かる五条の石橋を渡るとすぐに六波羅蜜寺があったことを歌っている。なお,当時の五条通はいまの松原通, つまり珍皇寺の前の通りである。また,16世紀に作られた「清水寺参詣曼荼羅」(きよみずでらさんけいまんだら)にも、信仰 を集めた六波羅蜜寺の地蔵堂が描かれている。 この先に、京都の作家・故山村美紗と西村京太郎の家が並んで建っている。 <京都霊山護国神社> 1868年6月29日(慶応4年5月10日)、明治天皇から維新を目前にして倒れた志士たち(天誅組など)の御霊を奉祀するために、 京都・東山の霊山の佳域社を創建せよとの詔・御沙汰が発せられた。それに感激した京都の公家や山口・高知・福井・鳥取・ 熊本などの諸藩が相計らい京都の霊山の山頂にそれぞれの祠宇を建立したのが神社創建のはじまりであり、招魂社である。 靖国神社より古い歴史を持つ。祭神の中には京都で暗殺された坂本龍馬も含まれており、境内に銅像が作られているほか、 誕生日であり命日でもある11月15日には、龍馬の遺徳を偲び霊を慰める龍馬祭が行われる(誕生日命日は本来は旧暦11月15日 だが、祭は新暦11月15日に行われる)。 手で隠れているところには「揮毫 吉田茂」と彫られています。 <坂本龍馬・中岡慎太郎の墓> 龍馬のほかに、木戸孝允、中岡慎太郎、頼三樹三郎、梅田雲浜、吉村寅太郎、平野国臣、久坂玄瑞、高杉晋作、宮部鼎蔵ら 幕末勤王の志士1,356柱、明治以降の日清戦争、日露戦争、太平洋戦争などの戦死者を合わせ約73、000柱が祭神として祀られ ている。 ここからは京都市内が綺麗に望めます。下はそれを背にここまで上ってきた皆さん。 これは木戸孝允(桂小五郎)の墓です。護国神社を作るよう明治天皇に提言し、自分が一番高いところに収まってます。   今日は見学しませんでしたが<霊山歴史館>です。昭和45年(1970)に、全国ではじめて幕末・明治維新期の歴史を 総合的にとらえて研究する専門博物館として京都に開館しました。 ここは勤王の志士たちが集まっては会合を開いていた「翠紅館」という料理屋の後です。今は京大和屋という料亭です。 戦前の代表的な日本画家・竹内栖鳳の旧屋敷跡です。ここも今は料亭になってます。 ここは前回の「新撰組の憂鬱」で廻った新撰組の、分離した一派の「御陵衛士」達の本陣があったところです。 伊藤甲子太郎はここから近藤勇に呼び出され「油屋の辻」で惨殺されます。 祇園祭の長鉾山車(だし)を模した宝塔。裏の「xxxx院」という寺の境内です。 <芭蕉堂> 京都市東山区円山公園南。この堂は、江戸時代中期、俳聖松雄芭蕉をしのぶため、芭蕉にゆかりの深いこの地に加賀の俳人 高桑蘭更が営んだのが始まり。鎌倉時代の初め、諸国を旅して自然を友とした西行が、この地に阿弥陀房を訪ねている。 芭蕉はこの西行を心の師とし西行を慕って旅の生涯を送ったが、この地で「しばの戸の 月やそのまま あみだ坊」の一句 を詠んだ。   <西行庵> 西行(さいぎょう)、元永元年(1118年) - 文治6年2月16日(1190年3月23日)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけ ての武士・僧侶・歌人。 父は左衛門尉佐藤康清、母は監物源清経女。同母兄弟に仲清があり、子に隆聖、女子(西行の娘) がある。俗名は佐藤義清(さとう のりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。出家して法号は円位、のちに西行、大本房、 大宝房、大法房とも称す。彼が結んだとされる西行庵は複数あるが、京都の皆如庵は明治26年(1893年)に、当時の庵主宮田 小文法師と富岡鉄斎によって、再建されて現在も観光名所として利用されている。その他にも、吉野山にある西行庵跡が有名 である。 円山公園にある、坂本龍馬・中岡慎太郎の像。護国神社の墓にあったものはこれの縮小版です。 この周辺で昼食にしました。松尾さん達がビールを買いに行ってくれました。感謝です。うまかった! <八坂神社&円山公園> 八坂神社(やさかじんじゃ)は、京都府京都市東山区祇園町にある神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社で、 現在は神社本庁の別表神社。全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする関連神社(約2,300社)の総本社である。通称とし て祇園さんとも呼ばれる。7月の祇園祭(祇園会)で知られる。 <知恩院> 知恩院(ちおんいん)は、京都府京都市東山区にある浄土宗総本山の寺院。山号は華頂山(かちょうざん)。詳しくは華頂 山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)と称する。本尊は法然上人像(本堂)および阿弥陀如来 (阿弥陀堂)、開基(創立者)は法然である。浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、 現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降である。徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人 々からは親しみを込めて「ちよいんさん」「ちおいんさん」と呼ばれている。四条天皇から下賜された寺号は「華頂山知恩教 院大谷寺」という長いものであるが、この名称は、寺の歴史を説明する時などを除いて通常は使われておらず、法人としての 寺院名も「宗教法人知恩院」である。 本日の参加者全員です。本日もご覧頂いてありがとうございました。 <蓮如上人御誕生地> 崇泰院 蓮如(1415〜99)は本願寺8代門主で,前門主存如の長男として大谷廟堂の地崇泰院あたりに誕生した。6歳で生母に死別,17歳 で得度し父に家学を学ぶが,多くは独学した。寛正6(1465)年,比叡山衆徒に大谷本願寺を破壊された後,北陸で布教。 門徒を講に組織して教化活動を拡大した。文明13(1481)年山科に本願寺を再建。大坂石山に隠居するが,山科本願寺で没した。 ここの石標は蓮如の誕生地を示すものである。 <青蓮院> 青蓮院は、三千院(梶井門跡)、妙法院と共に、天台宗の三門跡寺院とされる。「門跡寺院」とは皇室や摂関家の子弟が入寺 する寺院のことであり、青蓮院は多くの法親王(天皇の皇子や伏見宮家などの皇族の男子で出家後に親王宣下を受けた者)が 門主(住職)を務め、宮門跡寺院として高い格式を誇ってきた。江戸時代に仮御所となったことがあるため「粟田御所」の称 もある。日本三不動の1つ「青不動」のある寺としても知られる。三千院、妙法院などとともに、青蓮院も比叡山上にあった房 (小寺院)がその起源とされている。 青蓮院は比叡山東塔の南谷にあった青蓮坊がその起源であり、門跡寺院となって山下に移ったのは平安時代末期の行玄大僧正 の時である。久安6年(1150年)、鳥羽上皇の后・美福門院は青蓮院を祈願所とした。また、上皇の第7皇子覚快法親王が行玄 の弟子として入寺し、以後、皇族や摂関家の子弟が門主を務める格式高い寺院となった。山下へ移転した当初は三条白川(現 在地のやや北西)にあったが、河川の氾濫を避け、鎌倉時代に高台の現在地へ移った。ここにはもと十楽院という寺があり、 青蓮院の南東にある花園天皇陵は「十楽院上陵」(じゅうらくいんのうえのみささぎ)と称されている。 白川の流れ。下流へ花柳界・祇園の中を流れていきます。 <明智光秀塚> 国武将・明智光秀は、天正10年(1582)6月2日、主君である織田信長を本能寺に襲撃して自刃させた(本能寺の変)。その後、 6月13日、山崎合戦で秀吉軍に破れ、近臣とともに近江の坂本城に逃れる途中、小栗栖付近で土民に襲われ生涯を閉じる。白川 橋を南に下がった東側、和菓子屋・餅寅さんの横に「東梅宮 明智光秀墳」と刻まれた弘化2年(1845)の銘が入った石碑が 建っている。 その路地の奥に、光秀の木像と位牌を祀った小祠を中心に、五輪塔の笠石を重ねた光秀の首塚、「長存寺殿明窓玄智大禅定門」 (光秀の戒名)と刻まれた石碑がある。かつてはこの祠の中に、光秀の遺品と遺骨が納められていたと伝えられている。 「長存寺殿明窓玄智大禅定門」の石碑は、明治時代に光秀を演じた歌舞伎役者によって建立されたもの。光秀の木像は厨子の中 に納められていて見ることはできない。 餅寅さんでは、「光秀饅頭」という銘菓を売っている。光秀の首塚は、もとはこの場所にあったのではない。『京都坊目誌』に よると、光秀の首は、粟田の刑場にさらされた後、そのすぐ近くの西小物座町の人家のうしろに、他の数千の首と一緒に埋めら れ塚が築かれた。後世、光秀の子孫と名のる明田氏が、その塚にあった石塔を自宅(現在地の東)へ移して祀ったのがはじまり という。明治維新後、現在地に移され、今も大切に祀られている。 最初この首塚に来た時、なんか見たことがあるなぁと思ったら、NTT時代に私が仕事で来たことのある学生マンションでした。 まだ建設中だったのでよく分からなかったのですが、その時は後ろに首塚があるなんて全然知りませんでした。もう10年くら い前ですかねぇ。仕事はもっぱら業者さんに任せて、私は饅頭ばかり食ってたのですが。(筑前) 白川橋で記念撮影。ここから歩いて10分程で三条京阪へ。 京阪三条駅にある高山彦九郎皇居望拝之像 「上州新田郡(にったごおり)には有名人が3人います。さて誰でしょう?」「木枯し紋次郎!」「はい正解です。」 「後の二人は誰でしょう?」「「高山彦九郎やな」「はいそうです。では後の一人は?」「・・・・・・」 「新田ですよ。思い当たりませんか? 新田義貞です。高山彦九郎の先祖は新田義貞の家来だったんですね。その為 彼は勤王思想をまっしぐらに突き進んだとも言えます。日本中を勤王思想を説いて廻りますが、最後は久留米で割腹 して果てます。」「腹斬ったんか」「痛かったやろなぁ。」「朝切腹して、一日中のたうち廻って夜絶命したそうです。」 「うわー」「今も久留米には彼の墓があります。」 池田屋跡地 今はお食事処 <池田屋事件> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆 池田屋事件(いけだやじけん)は、幕末の元治元年6月5日(1864年7月8日)に、京都三条木屋町(三条小橋)の旅館・ 池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した 事件。池田屋騒動ともいわれている。近藤勇は書面で洛陽動乱と名づけている。 幕末の京都は政局の中心地となり、尊王攘夷・勤王等の政治思想を持つ諸藩の浪士が潜伏して活動していた。長州藩は会津藩 と薩摩藩による宮中クーデターである八月十八日の政変で失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていた。尊王攘夷派は勢 力挽回を試みており、京都守護職は新選組を用いて市内の警備や捜索を行わせた。5月下旬頃、諸士調役兼監察の山崎烝・島田 魁らによって四条小橋上ル真町で炭薪商を経営する枡屋(古高俊太郎)の存在を突き止め会津藩に報告。武器や長州藩との書 簡等が発見された。古高を捕らえた新選組は、土方歳三の拷問により古高を自白させた。自白内容は、「祇園祭の前の風の強 い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州 へ連れ去る」というものであった。 さらに探索によって、長州藩・土佐藩・肥後藩等の尊王派が古高逮捕をうけて襲撃計画の実行・中止について協議する会合が 池田屋か四国屋に於いて行われる事を突き止めた。 新選組は会津藩・桑名藩等に応援を要請したが、会津らの動きが遅く、時刻になっても動かなかった。このため事態は一刻を 争うと見た局長の近藤勇は単独行動に踏み切り、近藤隊と土方隊の二手に分け捜索を開始した。当時、新選組では病人が多い 等の理由で人手が少なく実際に捜索に当たったのは近藤隊10人・土方隊24人の総数わずか34名だった(異説有り)。 新選組は八坂神社から縄手通を土方隊、三条大橋を渡って木屋町通を近藤隊が探索した。 池田屋事件により逸材たちが落命し明治維新が1年遅れたとも、逆に尊攘派を刺激してしまい維新を早めたともいわれる。作家 の司馬遼太郎は、「この事件がなかったら薩長土肥主力の明治維新は永遠にこなかったであろう」と解釈している。 2013年05月30日 09:47 ポプラ マッチーさんとokawanさんの写真、そして筑前さんの解説で幕末の京都を垣間見ることができました。当日は仕事の飛び 入りで参加できずにとても残念、ごめんなさい。あせあせ(飛び散る汗) 見る価値、聞く価値のあるウオークだったよう ですね。 本間精一郎のコト初めて知りました。今後、注目しておきます。豊臣秀次公一族終焉之地、見たかったなあ。 豊臣一族の最後が瑞泉寺であったとは。私の祖先は豊臣に属してたので、興味シンシン。一度行ってみよう。 高瀬川沿い のプロムナードは私のお気に入りの散歩道、それが悲惨な過去に彩られたとは。物事の表裏を知りました。 歴史ウオーク は毎回充実してますねえ!
三人の美女と 帰り道、三条から四条へ高瀬川沿いを歩く 2013年05月27日 12:08 okawan 筑前様 京都のど真ん中をこうやって筑前さんの名解説付きで周れて充実した一日を過ごせました!ご案内有難うございました。 自分で調べて行くとすれば果たして何日かかるやらと思えるコースを実に効率よく周っていただいて感謝、感謝です。 京阪三条駅で解散後、筑前さんが阪急河原町まで帰られるのに女性3人お供しました。池田屋→瑞泉寺(豊臣秀次公一族 終焉之地で一族のお墓がありました)→お龍(龍馬夫人)独身時代の寓居跡→本間精一郎遭難之地(ここでは私達の他 道行くカップルが筑前さんの解説に聞き入っていました)→四条で再解散 「瑞泉寺」豊臣秀次公一族終焉之地。三条河原にうち捨てられていた骨を集め、角倉了以が哀れんでこの寺を建てました。 角倉了以碑 ---------- 木屋町通蛸薬師に、旧京都市立「立誠」小学校がある。この学校の正面玄関右に、角倉了以の顕彰碑が建てられている。 同地域の高瀬川保存会によって高瀬川開創350年を記念して建立された。高瀬船の船板を模したモニュメントの上に角倉 了以の像が乗っている。 掘削当初の高瀬川の長さは、京都伏見間約10kmであったが、五条から南は昔の農耕用水路を拡張利用したのでだいぶ曲 がりくねった水路となり、ほぼ中間で鴨川を横断していた。当初は川幅も約8mで水量も多く、深さも30cm以上あった が今は川幅は半分程度になっている。また、鴨川から伏見へ至る東の高瀬川は、もう存在しない。 川岸は、炭屋や材木屋とその倉庫が多く、残りは大名諸藩邸だった。船着き場である「舟入(ふないり)」が二条から四条 までの間に九つ設けられ、荷物の積み卸しや舟の方向転換の場所となっていた。高瀬舟は、浅い川でも航行できるように、 底を平たくした舟で、幅2m、長さ13m位で15石積(2.25トン)であった。高瀬川にはいくつもの橋が架けられ、 その名前も変遷したが、往事には今よりもっと高いところに掛けられ、階段や坂を上って渡る様になっていた。明治28年、 沿岸の二条と五条の間を日本最初のチンチン電車が通る事になり川岸も整備され、現在のような、三条・四条・五条を除く 橋は、みな低い橋になった。 現在の高瀬川。上と下をつなげて、二条から五条までとなる。
本間精一郎遭難之地にある石碑 と 坂本龍馬夫人のお龍さんが独身時代に住んでいた地の石碑 2013年05月27日 21:34 筑前 オカワンさん、写真ありがとうございます。 本間精一郎は勤王の志士の中でもマイナーな志士で、なぜ有名なのかと言えば、その唯我独尊的な振る舞いと、死に様の 悲惨さです。昔はよく映画やTVに出現してましたが、最近は幕末物にも登場しないようですね。 同じ勤王の志士、薩摩の田中新兵衛(人斬り新兵衛)や土佐の岡田以蔵に殺される人物で、めちゃくちゃな言動と振る舞 いで仲間に殺されてしまいます。胴体を真っ二つにされ、上半身は高瀬川に投げ込まれ、下半身は犬に食われます。 高瀬川沿いはそのような血なまぐさいエピソードに充ち満ちています。ほんの150年ほど昔のことですが、我々のひい じいさんが生きていた時代(生まれた頃?)に、京都はそんな状態だったのですね。 我々は,戦後に生まれていて良かっ たとつくづく思う今日この頃です。 2013年05月27日 21:51 okawan 筑前さん そうそうそのお話、カップルがやけに熱心に聞いてました!胴体半分って聞いただけでも恐ろしい! あの辺で血生臭い事が起こっていたんだと筑前さんに聞いて初めて知りました。          お疲れ様でした!

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